2025年5月1日木曜日

るかるーの新曲『self effacement -blue-』の歌詞を味わう。

 4/27のM3でリリースされた,るかるーのCD『ブルーレモネード』。

 1曲目の「self effacement -blue-」を聴いてみたところアウトロに不穏なものを感じた。
 タイトルにある"effacement"には「消去」「消滅」といった意味があるようで,おぉ,歌詞もなかなか味わい深そう…ということで気付いたら歌を聴き込みながら歌詞を読み込み咀嚼していた。

 るかるーに歌詞の掲載許可を頂いたので、自分の歌詞の解釈をなるべく他の読み方を排除しない形で記したい。
 そしてみんな聴いてくれ。

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self effacement -blue-

作詞:るかるー/作編曲:perbit


 歌詞の語り手のことを「わたし」と表記します。

 それでは以下,自説の開陳。

 実際のところはわからないが,「夢のできごと」とされている。「堕ちていく」の字から、良い状態から悪い状態へと落下や沈下をするイメージが湧く。 望んでか望まずかはわからないが,「わたし」は水の中に落ちているのではないかと思われる。強く嫌がっておらず,沈んでいくことは受け入れているように感じられる。

 韻を踏みながら雨が降っている,もしくは降っていた情景を描いている。「窓の曇りを指でなぞ」るのは楽しいときにもすることではあろうが,ここでは退屈の表現や何かを待っている雰囲気があると見る。

 「溶け切った」という混じりけのなさを強調する表現から,実際はどうであれ空が一色に見えているのだと思われる。雨が降っているのであれば,空の色は灰色なのではないかと思われるが「ブルーレモネード」と表現されており,退屈や鬱々とした気分がそうさせるのか雨水,雨空が「わたし」には全て青色に見えているのか,夢の中であるならば実際に青色なのかもしれない。

 「滲む景色」は涙や「わたし」が沈んでいる水のことと思われる。「わたし」が水に落ちる,沈んでいるのであれば,「君が手を伸ばしていた」は落ちる,沈む「わたし」を助けようとしているのだと思われる。

 そうではなく「わたし」が水に落ちているか,沈んでいるかに関わらない比喩であるとしても,少なくとも「君」が「わたし」のためを思って何かをしてくれたこと,もしくはその思いを感じたことと考えられる。

 落ちていく,沈んでいく中で離れていく「君」の声の残響。「遺る」の字から「君がいなくなっても」ということと思われる。

 「今すぐ会いたい」と直接「君」に言うのであれば,会えるか会えないかはそこで返答があればわかることが多いと考えられる。そのため「今すぐ会いたい」は直接「君」に伝えたのではなく,おまじないや願掛けのような感じでつぶやいてみたのではなかろうかと思う。

 もしくは「「今すぐ会いたい」って言ったら」,これは「わたし」の夢の中だから「もうすぐ会えるかな」ということと考える。つまりその場合は「わたし」の夢の中なので,「わたし」が望めば「君」を呼び出すことができるということではないかと思われる。

 「触れた心に涙がつたう」は「君」と「わたし」のどちらの心か,それとも両方か。心に対して触れたのか,それとも心に何かが触れてきたのか。「涙がつたう」のは心に涙が流れているのか,「心に触れたこと」への反応として涙が流れたということなのか。一つの考えとして「君が手を伸ばしていた」とあるので,それが「わたし」の心に触れ,そのことに対して涙が流れたのではないかと考える。

 「いつのまにか」は「涙がつたう」にのみならず「届かないぬくもり」にもかかっていると思われ,「ぬくもり」は「手を伸ばしていた」「君」であると見ると「わたし」は「君」にもう会うことはできない,もしくは「手を伸ばして」もらうことはできないのだと思われる。

 「ぬくもり」が「わたし」の「涙」もしくはその涙を流させる感情,「君」への思いであると見ると,「君」に会うことができなくなった,もしくは「君」から離れていく「わたし」の涙は「君」へと向かってつたっていくことがないということと思われる。すなわち,会うことができるのであれば涙を流す姿を見せたり,「君」に触れていれば「わたし」の涙が「君」に本当につたうこともあろうかと思われるが,「君」に会うことも触れることもできないいまでは,涙は「君」への方向性なくただその場にこぼれていくということではないかと思われる。

 もし「わたし」が水に落ちて,沈んでいるのだとすれば,こぼれた涙はすぐさま周囲の水に溶けてしまいどこにもつたうことがない。水の中でなければ重力に従い流れた涙は頬に跡を残したり,服や地面に落ちて色を変えたりと周囲に変化を起こす。しかし水の中でいくら涙がこぼれても持っていた「ぬくもり」はたちまち失われ,涙はどこにも誰にも届かず,周囲に変化を起こすこともなく消えていく。

 「醒めない」とあることからこの夢の世界はいつ見ても,いつまで見ていても変わることがなく「ブルー」なのだと思われる。空は青以外の色を見せることもあるが,この夢の世界ではそのときはいつまでも訪れないのだろうか。もしくは「醒めない」というのはどちらかと言えば,この夢の世界に留まり目醒めようとしない「わたし」にかかっているのだろうか。悲しい雰囲気に満ちているのに,なぜか「ただ眺めていた」とこの世界を受け入れている。

 1番は夜に見る夢だったが2番は昼に見る夢になっている。1番では沈むことを受け入れていたのに対して,行動も対照的に水面を目指している。「痛み」は一度は沈むことを受け入れたつもりがいざその時になると襲われた肉体的な苦痛かもしれないし,「君」が手を伸ばしてくれているのに黙って沈んでいくことに心が覚えた痛みかもしれないし,そこで必死に水面を目指してみて初めてありありと現れた息ができないことの痛みかもしれない。
 「漂っている」というのは目元にあふれる涙,もしくは「わたし」が水に沈んでいるのであればその波立っている水面,その向こうに揺れる「君」が見えているのではないかと思われる。「漂う」という表現には力強さや意志の強さが欠けているように思われ,直前で必死に水面を目指す「わたし」とは対照的に躊躇したり,今度は「君」が1番の「わたし」のように積極的な行動をせずに状況を受け入れてしまうように見える。

 何より「君」は滲む景色の「向こう側」にいる。「わたし」は水に溺れて苦しんでいるのに同じ水に飛び込んできてはくれていない。水に溺れているのが比喩であるとしても,「わたし」が生きようともがき始めたのを知ってか知らずか,一緒に同じ苦境で苦しみ支えあってはくれない「君」。「手を伸ばしていた」1番の「君」と対照的な冷たさを覚える。

 「わたし」と「君」は1番と2番で変わらずに同じ人物だとすると,1番で「君」が手を伸ばしてくれていたのに離れることを受け入れてしまったので,「君」は「わたし」に手を伸ばすことを諦めてしまったのかもしれないし,もしかすると今では「わたし」と気持ちや空間の隔たりが生じていて,そもそも「わたし」の状況を知る由もないのかもしれない。
 「届かない声の余白」が「とぎれ 消えた」のは先ほどまで景色を滲ませていた,「わたし」が沈んでいくその水にどちらか,もしくは互いの声が阻まれたということであると見える。「声の余白」を言外に込められた思いと捉えると,直後の「今すぐ会いにきて」の背後にある「君」の思いが「わたし」に「届かない」のであれば気づいてあげられなかったということに思われる。他にはたとえば「君」の外の世界に「届かない」とか,そのため実現に「届かない」などとも読める。

 水を比喩とすると「とぎれ 消えた」のは「わたし」と「君」が空間的に離れてしまったのか,苦しむ「わたし」と向こう側にいる「君」との間に状況や気持ちの隔たりがうまれたのかはわからないが,お互いの言葉や思いが行き交うことができなくなってしまったということではないかと思われる。

 もし1番と2番で「わたし」と「君」が入れ替わっているとすると「声」の主は1番で沈んでいく「わたし」を手を伸ばして助けようとした「君(1番)」である可能性もある。その場合「届かない声の余白」は「わたし(1番)」に呼びかけた言葉に込められた,何か寄り添おうとする気持であるとか,何か生きることの希望であるとかではなかろうか。水は単に苦境の比喩に過ぎないかもしれないが,その言葉や言外の思いが水の音や,ものとしての水に阻まれて「わたし(1番)」に聞こえなかった,もしくは聞こえても心に響かなかったのではないかと見える。そのために君が水に沈んでしまったのであれば命を失ったのかもしれないし,助けてあげられないほどひどい状態になってしまったとか,助けてあげられないほど互いの気持ちや空間の距離が離れてしまったということかもしれない。手遅れになってしまった感じがある。そのことを悔やんで「君の声忘れられない」のだと考える。

 もしくはあくまでやはりこの部分の「声」というのは全て,「今すぐ会いにきて」と言った「君の声」と捉えるのが自然なようにも思われる。その上で1番と2番で「わたし」と「君」が入れ替わっているのであれば,1番の「もうすぐ会えるかな 「今すぐ会いたい」って言ったら」で「わたし(1番)」は「君(1番)」に 「今すぐ会いたい(実際には「今すぐ会いにきて」)」と伝えていたのではないかと考えなおせる。しかし2番の「わたし=「君(1番)」」はそれに返答しなかった,できなかった。もしくは良い返答をしたにせよ,相手の「もうすぐ会えるかな」という期待には応えられなかった,応えなかったのかもしれない。そうしてやはりこちらでも何か手遅れになり,その転換点になった「今すぐ会いにきて」の声が忘れられないのだと考える。

 「夜」は実際に夜のことかもしれないし,「ぬくもり」が何を指すかの捉え方によっては「水」もしくはそれにたとえられた「苦境」かもしれない。「ぬくもり」が「わたし」や「君」の温かな思いや言動のことであるとすると,それが「おきざり」になったのは受け取ることができなかったからだと思われる。

 もしくは「ぬくもり」は直接に,救うことが叶わずに水中や波間に残された「わたし(1番)」のことかもしれない。「遠い」とあることから時間的や空間的,感情的な隔たりがあって,その「ぬくもり」を取り戻すことは難しい,もしくは不可能なのだと思われる。
 「わたし」は「君」の「ぬくもり」を「独り占め」したかったが,できなかったと読める。たとえば先の,「今すぐ会いにきて」と言って「君」が脇目も振らずに来てくれるかどうかで気持ちを確かめたかったが来てはくれなかった,もしくは来てはくれたが「わたし」だけのものではないことがわかってしまったのではないだろうか。

 まずは,「わたし」にとって「わたし」のぬくもりは「君」だけのものであるつもりだけど,残念ながら「君」は「君」のぬくもりを「わたし」だけのものするつもりはないことがわかってしまったのだと考える。「わたし」は「君」との気持ちの温度の違い,「わたし」にとっての「君」は特別だったけど,「君」にとっての「わたし」はそうではなかった。そのことや,それによって独り占めの夢が叶わない。「醒めないブルーの記憶」が水のようにあふれ流れていくのか,もしくは実際に涙があふれ流れているのかもしれない。

 次に,「君」は「君」のぬくもりを「わたし」だけのものにするつもりだった,もしくは「わたし」は「君」のぬくもりを独り占めするつもりだったが,「わたし」だけのものにしてはいけないと「わたし」はわかってしまったのだと考える。そうすると「君」のぬくもりは「わたし」以外にも多くの人を温めていたのかもしれない。「わたし」が使い果たしてよいものではないと身を引いたのかもしれない。
 「しわよった眉間」からいらだちや苦悶が感じられ,「指が撫でる」から慈しみや慰め,もしくは機嫌取りの印象を覚える。他は「ぬくもり」という表記であるのにここでは「温もり」。これまで「ぬくもり」は何度か出てきたが,その際に「わたし」と「君」との手や体が触れたかどうかは言及されておらず,おそらく身体の接触は重視されていない。「ぬくもり」という表現は,直接触れることのできない温かな気持ちや言動により比重が置かれていると考えられる。一方,ここでは実際に触れている「君の指」から伝わってくる体温や熱であることにより比重が置かれているので「温もり」なのだと解釈する。

 気持ちがすれ違ったのか,気持ちの温度が異なることに気づいたのか,とにかく「わたし」と「君」の二人の繋がりはもう手遅れになっている。その現状,事実がある以上,以前交わした懐かしい「君」もしくは互いの温もりも,今では「わたし」または二人の痛みや辛さを大きくするだけに感じられるのだと思われる。もはや水の中で生きる魚(「わたし」)に人(「君」)の体温は熱すぎて,その手で触れられると酷く傷ついてしまうみたいな。
 うん。

 温もりを交わしあうことができた日,そうすることで二人に幸せがあふれた日,それがずっと続くものだと信じられた日。

 なのにどうして…
 「言えたら」とあるが「君」に言えたのか,言えていないのか。「君」に言えたのだとして,それは現実なのかそれとも夢の中だけのことなのか。後の歌詞からすると,現実で「君」に言うことはできなかったと思われる。言えたのだとすると,夢の中で「君」に言うことができて不幸な結末を迎えた現実を夢の中ではやり直すことができたのではないかと思われる。

 そもそもこれまで登場してきた「君」ではなく,その後に「わたし」が幸せな二人になることができた相手かもしれない。どちらにしても「君」との思い出から,今の「わたし」は相手に素直に気持ちを伝えることが大切であると思っているのではないか。
 「わたし」の伝えた気持ちに夢の中の「君」が微笑む。「わたし」がその微笑みに向かって伸ばしたのか,やはり「君」が「わたし」を救おうと伸ばしたのか,その手はまたも届くことはない。またブルーの中へ,抗うことなく「君」から遠ざかっていく「わたし」。空は晴れ,光が差し込み,君は微笑んだ。悲壮感は薄い。本当に満足した,納得することができたから「君」との別れを「静かに」受け入れられる。
 「ブルー」を繰り返し,ここにきて初めての「青」。「青」からは「未熟さ」とか「若さ」「爽やかさ」などを感じる。「青の季節」はたとえば「青春」。沈鬱な雨模様をうっかりブルーレモネードにたとえてしまったのは,「わたし」が実はあの日々に「甘酸っぱさ」も感じていたのでは。

 あの日々を悔やみ,夢の中でやり直す必要はもうない。記憶を作り変える必要はない。そのままの姿で記憶の中に大切に守る。あの日々に本当にあった「君のぬくもり」を忘れてしまうことがないように。

 きっと今でも「君」のことが確かに好きな「わたし」。「恋の音」は「君」のぬくもりに触れて恋に落ちた瞬間の感覚なのだろうか,それとも「君」に恋する中で聞いた「君」の言葉とか,雨や涙の音,もしくは幸せな風景に満ちていた音や声なのか。

「君」と一緒になれることを今でも待っているのか。いや,もしくは思い出の「君」のことを待っているこれまでの夢に別れを告げ,「君」の思い出とともに「君」はいない現実へと帰っていくのか。夢の中の「君」からも「わたし」は離れて,「わたし」は「君」の前から「わたし」を消した(これが「self effacement」?)。わからないが,「君」とのあの日々は青の季節として大切に閉じ込めた。もうブルーな夢が「わたし」を絡めとることはないのではないかと思う。


終わりに

 こういったことは初めてしました。素敵な曲や歌声はもちろん,「これはじっくり読みたい!」と思わせたるかるーの詞のおかげですね。
 2曲目の「ブルーレモネード」も3曲目の「レモン☆ぱちぱち☆せんせーしょん!」も良い感じだから買ってくれ聴いてくれ。前々作の「起こせ!せんせーしょん(リンクはYouTubeの公式音源)」は俺もお気に入りの曲だし,各種音楽サービスで配信されてるからどうですか。

 「ぬくもり」と「温もり」の表記があることに気づいてしまい,そこからあふれる情熱で2日間で書き上げることができました。

 読んでくれてありがとう。

るかるーの新曲『self effacement -blue-』の歌詞を味わう。

 4/27のM3でリリースされた,るかるーのCD『ブルーレモネード』。  1曲目の「self effacement -blue-」を聴いてみたところアウトロに不穏なものを感じた。  タイトルにある"effacement"には「消去」「消滅」といった意味があるよ...